大内宿 三澤屋
大内宿 三澤屋 訪問記
2021年 10月 訪問
10月、秋晴れの日、以前から行ってみたいと思っていた、「大内宿」を訪れました。
よくもこのような、日本の原風景ともいえる茅葺屋根の家並みが、長い時間を超えて現在まで保存されていたことに、とても感銘を受けました。
そこで「ウイッキペディア」で調べてみると、とても歴史的なタイミングが関係しているようですね。
大内宿は江戸時代に、会津西街道、通称、下野街道の宿場として開かれ、街道に沿って整然とした屋敷並みが作られました。当時は若松城から江戸までの参勤交代や、迴米の集積地として重要な駅として、とても栄えていました。
しばらくすると、幕府の命で、参勤交代のルートが厳格化され、会津藩も白河街道のルートへとシフトせざるを得ず、以降の日光地震などの災害後、人並みも次第にすたれ、半農半宿の宿場となったようです。
其の後、時代は明治となり、若松県、其の後、福島県となり、鉄道が敷設されることにより、更に大内宿の宿駅としての地位は失われ、純粋な農村となっていったのです。
時代は、大正、昭和と進み、近代化の波の中、昭和40年代になると、奇跡的に取り残されていた大内宿の街並みに注目した、外部の研究者らが盛んに来訪するようになり、この地の旧宿場の街並みが再評価されて、保存活動が提唱されましたが、住民は生活の近代化を望んで否定し、旧街道は舗装されて、茅葺屋根はトタン屋根に葺き替え、建物の近代化が進んでいきました。
昭和末期。国の重要伝統的建造物群保存地区として、長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて全国で3番目に選定され、ようやくにして保存活動が盛り上がり、電柱などを旧街道から生活用の新設道路へ移設して、アスファルト舗装されていた旧街道を以前の土の道へ復元したりして、観光地化への整備を進めて現在の姿になったそうです。
前置きが長くなってしまいましたが、さあ、街を散策してみましょう。
保存地区は400メートルほどの土の通りの左右に水路が流れ、茅葺屋根の家が並びます。すべての家が茅葺屋根ではありませんが、景観を損ねないように配慮されているようです。又、ほとんどの家がお土産物屋さんか、食事処、民宿などを営んでいるようですね。
途中、防災施設の見取り図や、放水施設が埋設されている場所が見受けられました。やはり茅葺屋根の家は火事が一番怖いので、大変なご苦労が有るようですね。
街並みを散策し、お昼になったので、三澤屋さんで蕎麦を頂きました。
店前の砂利敷の庭には、京都の枯山水の庭の様な熊手の模様が有り、歩くのがはばかれるようです。
建物内部はリノベーションされていて、とてもきれいになっています。自分としてはもう少し古いまま残してあったほうが好きですが、これは好みの問題。
訪問時はそれほど混んでいなく、早速お座敷へ。水そば、高遠そば、天ぷらを注文しました。
そばは名物の「ねぎ」を使っていただきます。はじめはなれなかったのですが、しばらく格闘すると少し様になってきました。
大内宿には宿泊施設もあるようで、滞在してゆっくりするのも良いかもしれません。
こののような素晴らしい日本の原風景の街並みが、これからも末永くく残っていくことを期待します。
(ウイッキペディアを参考にしています。)
旅の記録
訪問日 : 2021年 10月
スタイル : 観光 昼食
経費 : 水そば 1430円 高遠そば 1320円 天ぷら 880円